冷たい夜気が頬を撫でて、ようやく陽菜の酔いを少しだけ追い払った。病院の中庭は街灯に淡く照らされ、植え込みの影が長く伸びている。さっきまでの喧騒が嘘みたいに遠く、二人の呼吸だけがやけに近かった。 「ねえ、宗介」 陽菜が先に沈黙を破ると、彼は壁際に凭れたまま目だけを向けた。 「どうして、あんなに人を遠ざけるの」 宗介の肩がわずかに動く。答えを探す間、陽菜の胸には、まだ彼の熱が残っていた。指先を伸ばせば触れられる距離なのに、触れたらまた全部が流れ込んでしまう。だからこそ、言葉だけで届かせたかった。 「……昔」 宗介は短く息を吐いた。 「医療ミスになりかけたことがありました」 陽菜は息を止める。 「患者を、危うく傷つけるところだった。止められたのは偶然です。けれど、あの瞬間からずっと、私の中で終わっていない」 声は落ち着いているのに、その奥に沈殿したものが重い。陽菜は責める言葉を探さなかった。代わりに、宗介がどれほど長く、その一瞬を一人で抱えてきたのかを思う。 「だから、誰にも近づかないようにしてたの」 「近づけば、また間違える気がした」 「ばか」 思わず漏れた声に、宗介が目を瞬かせる。 「そんなの、ひとりで背負いすぎ」 陽菜は自分でも驚くほど静かに言った。責めているのではない。ただ、そこにある痛みを、ようやく見つけたという感じだった。 宗介の指先が、白衣の袖口をきつく握る。触れなくても分かる。彼はいま、自分の告白の重さに耐えている。 「でも、私は」 「聞かない。言い訳とか」 陽菜は首を振った。 「責任を取ろうとして、全部閉じ込めたんでしょ。だったら、それはもう充分見た」 その瞬間、ふいに風が吹いた。宗介が無意識に一歩寄って、陽菜の身体が熱を持つ。触れてはいないのに、胸の奥がざわりと鳴った。彼の息が少し乱れたのも分かる。さっきまでよりずっと近い。近すぎる。 「……陽菜さん」 名前を呼ばれた瞬間、呼吸が絡むように止まった。宗介の感情が、熱を帯びたまま流れ込んでくる。恐れ、安堵、そして言葉にできないほどの強い引力。陽菜のほうも、同じものを返しているのだろう。胸が苦しくなるほど、互いの気配が重なる。 「ちょっと、待って」 陽菜は笑い混じりに言ったが、笑えていなかった。 「近いと、変になる」 「……同意します」 宗介の声も、妙に掠れている。二人とも、息を整えるだけで精一杯だった。沈黙が落ちる。けれどもう、その沈黙は居心地の悪いものじゃない。何も言えないまま、何かが確かに変わったあとに残る、静かな余韻だった。 陽菜は胸の奥に残る熱を押さえながら、宗介を見上げる。さっきまで患者と医師の距離でしかなかったはずなのに、もう違う。守られたい、支えたい、そう思うだけでは足りない。彼の全部を知りたい、と願ってしまっている。 宗介もまた、答えのないまま陽菜を見返していた。その目に、初めて迷いではなく、確かな渇きが宿っている。 信頼は、いつの間にか恋に変わっていた。
共感覚クリニック
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