エラベノベル堂

共感覚クリニック

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8章 / 全10

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白い廊下の先で、朝の空気だけが少し冷たかった。更衣室へ続く扉の前に立つと、陽菜は自分の膝をそっと撫でる。昨日までの重さはまだ残っている。けれど、歩くたびに返ってくる違和感は、前ほど怖くなかった。 「平気ですか」 背後から聞こえた宗介の声に、陽菜は肩越しに振り返る。 「平気じゃないって言ったら、先生困る?」 「困ります」 即答されて、思わず笑いそうになる。だが宗介は笑わない。白衣の裾を整えながら、視線だけを扉の向こうへ向けている。院内の誰かに見られている気配が、陽菜にも分かった。二人の距離は、ただ近づけばいいものじゃない。そういう空気が、静かに張りつめていた。 「公私混同は、よくないんですよね」 陽菜がわざと軽く言うと、宗介は短く息を吐いた。 「よくありません」 「じゃあ、離れたほうがいい?」 その問いに、宗介の指先がわずかに止まる。離れればいい。そう言うのが正しいのだろう。患者としても、医師としても。けれど、陽菜はすぐにその空気の変化を感じ取った。彼の中にある疲れが、触れなくても滲んでくる。 「……あなたが離れると、症状が強く出るなら」 「症状って言い方、すごく嫌」 「事実です」 「でも、私も同じ」 陽菜は小さく拳を握った。接触を避けるたび、逆に互いの感覚は鋭くなる。昨日の熱がまだ残っているせいかもしれない。そう思っても、あの胸の奥に落ちてきた重さは消えなかった。 「走るの、諦めろって言うなら、先に言っとく」 宗介が顔を上げる。 「そんなことは言いません」 「だったら聞いて」 陽菜はまっすぐ彼を見た。更衣室の扉の前、誰かが通る気配を遠くに感じながら、それでも声を落とさなかった。 「私は走る夢、諦めない。膝がどうなっても、ここで終わるつもりはない」 宗介の目が、ほんの少しだけ揺れる。止める言葉を探した気配はあった。けれど、彼が選んだのは否定ではなかった。 「……なら、最後までやります」 低い声が、朝の静けさに落ちる。 「治療計画を、最後まで。中途半端にはしません」 「うん」 「あなたも、無理はしないでください」 「先生こそ」 言い返すと、宗介はわずかに目を細めた。たぶんそれは、笑顔に近い何かだった。 陽菜は息を吸う。境界を守ろうとするほど、触れないまま伝わるものが増えていく。それでも今は、それでいい。走るために必要なのは、ただ脚だけじゃない。支える誰かの覚悟も、きっと必要だ。 「じゃあ、信じる。先生のこと」 宗介は答えなかった。けれど、その沈黙は拒絶ではなかった。朝の白い光の中で、二人の間にある見えない糸だけが、静かに張りつめていた。

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