まどかは、その場から動けなかった。濡れた靴下の感触がじわりと冷えていくのに、胸の奥だけは妙に熱い。眠っている男の顔を見下ろしたまま、夢で何度も触れた空気の輪郭を確かめるように、浅く息を吸った。 ここは、現実だ。 そう理解した瞬間、頭の中のどこかで固く結ばれていたものが、静かにほどけていく。壁の向こうにいる誰かを想像していた夜。手のひらに残ったぬくもり。廊下ですれ違っただけで胸がざわついた朝。あれは全部、気のせいではなかったのだと、今さらみたいに思い知らされる。 ベッドの上の健人は、雨音に紛れるほど静かに眠っていた。部屋の空気は少しだけ本の紙みたいな匂いがして、まどかはそれを吸い込むたび、夢の中で揺れていた景色を思い出す。あの場所では、立っているだけで心が近づいた。ここでも同じだ。壁一枚が消えた今、空気そのものが、あの夢の続きみたいに感じられる。 「ほんとに……隣の人だったんだ」 声にした途端、自分の中にあった疑いが輪郭を持った。隣人という言葉だけでは足りない。もっと前から、もっと遠回りに、この人とつながっていた気がする。知らないはずなのに知っている。触れていないはずなのに温度だけが残っている。そんな不思議が、目の前の眠る姿で急に一本につながった。 まどかはそっと拳を握る。夢の中では自然に笑えたのに、今は喉が少し詰まる。それでも怖さより、確かめたい気持ちが勝っていた。 「偶然じゃ、ないよね」 誰に向けた言葉でもなかった。けれど言った瞬間、部屋の静けさがやけに深くなる。窓の外で雨が細く鳴り、カーテンの端がわずかに揺れた。その揺れまで、夢の延長のように思える。 まどかはもう一度、健人の横顔を見た。廊下で見た曖昧な既視感が、今ははっきりとした確信に変わりつつある。あの夜の夢も、さっきまでの違和感も、この距離でなら全部つながる気がした。 彼女は息を整え、目を覚ますその瞬間を待つように、眠る隣人のそばに立ち続けた。
シェアドリーム
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