閉店後の作業場は、昼間よりずっと静かだった。外の通りを渡る音も遠く、灯りの輪の中に机と紙だけが浮かんでいる。結は机の上に広げた特別な紙にそっと指を伸ばし、昨夜までとは違う緊張で息を止めた。 「これ、触っても平気かな」 「平気じゃないなら、俺が先に見る」 陸の返事はいつも通りぶっきらぼうなのに、結の隣へ立つ距離だけは近かった。指先で表面をなぞると、紙はひんやりしているのに、なぜか奥に熱を隠しているみたいだった。そのまま何度かゆっくり撫でると、紙を介してふっと熱が伝わってくる。 「……え、なにこれ」 結は思わず顔を上げた。陸も自分の手を見下ろし、少しだけ目を細める。 「俺の手、熱いか」 「熱いっていうか……紙が、返してる」 言いながら、結は気づいてしまう。紙の反応だけじゃない。陸の温度が触れるたび、胸の奥に隠していたものまで浮かび上がってくる。さっきまで平静だったはずなのに、視線が合うだけで落ち着かない。 「結」 「なに」 「さっきから、顔に出てる」 「出てない」 「出てる」 陸が短く言って、結はむっとする。でも否定しながらも、自分でもわかってしまった。隠しているつもりだった気持ちが、紙の表面をなぞるたびに滲み出ている。仕事の手順に紛らわせていたけれど、もう誤魔化せない。 「……あたし、たぶん」 言いかけて、結は口を閉じた。まだ言葉にするには早い。けれど、早いだけで、消えたわけじゃない。 陸は黙って紙を押さえたまま、少し視線を落とした。 「俺も、似たようなもんだ」 その声は低くて、驚くほど静かだった。結は思わず顔を上げる。陸は普段みたいに平然としていない。棚の隅に落ちた影みたいに、言葉の少ない奥へ自分を押し込めている。 「結がいると、助かる」 「それ、仕事の話?」 「最初はな」 陸は苦く笑う。 「でも、助かるって思うたび、変だなって思ってた。誰かに支えられるのに慣れてないんだ。慣れてないどころか、最初から一人で平気なふりをしてきた」 結は返事ができなかった。陸の掌に残る熱が、今度は自分の胸にまで移ってくる気がした。ずっと平然としていたように見えたのは、ただの強さじゃない。ひとりで立っているしかなかった時間の長さだ。 「……孤独、だったの」 尋ねると、陸は一瞬だけ目を閉じた。 「気づかないふりはしてた。けど、もう無理かもな」 その言い方が、妙にずるい。弱音みたいなのに、逃げていない。結は唇を噛み、それから小さく息を吐いた。 「じゃあ、無理しないでよ。支えるから」 「簡単に言うな」 「簡単じゃないもん。でも、言う」 陸は少し驚いた顔をして、それから目を逸らした。耳がほんのり赤い。 その反応を見た瞬間、結は自分の胸の高鳴りをはっきり自覚する。相棒だから気にかけるんじゃない。ただ隣にいてほしい。そう思ってしまうのが、もう止められなかった。 紙の上で、二人の影が重なる。熱はまだ消えない。けれど今は、それを怖いとは思わなかった。
記憶を染める和紙
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