朝の光が、寝室の隙間から細く差していた。まだ完全には目が覚めきらないまま、俺は共用キッチンの扉を開ける。昨日までの重たい静けさとは違って、ここには生活の音があった。やかんの小さな振動、食器の触れ合う乾いた音、そして、彼女の呼吸。 「起きてたのか」 「あなたがうるさくないうちに」 振り向いた彼女は、寝癖を残した髪のまま、マグカップを両手で包んでいた。強い言い方のわりに、声は少しだけかすれている。俺はそれを聞いて、昨夜の照明を思い出した。明るさを落としただけで、あれほど肩の力が抜けるなら、他にもできることがあるはずだ。 「朝は、刺激が少ないほうがいいか」 「何の話」 「光と音。あと、会話の距離」 彼女は一瞬だけきょとんとして、それから視線を逸らした。湯気の向こうで、頬がわずかに赤い。俺は冷蔵庫から簡単な食材を取り出し、手早く並べる。匂いが立ちすぎないように火加減を抑え、椀を置く位置も少し離した。 「勝手に気を回さないで」 「嫌ならやめる」 「……やめなくていい」 その返事は、ほとんど聞こえないくらい小さかった。 彼女はスプーンを持ったまま、しばらく動かなかった。俺が何か言うのを待っているのか、それとも、聞きたくない感情の波が来るのを警戒しているのか。リンク越しに伝わってくるのは、相変わらず薄いざらつきだ。でも昨夜よりずっと弱い。俺が間を詰めすぎないだけで、こんなに違うのかと思う。 「……昔から、こんなふうだったのか」 「何が」 「人といるのを避けるの」 彼女は少しだけ黙った。窓の外で、遠くの搬送路を走る車の低い音がした。 「避けてたんじゃない」 「じゃあ、なんだ」 「近づくと、拾いすぎるの。怒ってる人、焦ってる人、悲しい人。全部、いちいち入ってくる」 マグカップの縁を指でなぞりながら、彼女は続けた。 「知らないふりをしたら、その場はやりすごせる。でも、あとから残る。自分のものじゃない感情まで、胸に貼りついて離れない」 その言い方が、妙に静かだった。怒っているのではない。ただ、長いあいだ息を潜めてきた人の声だ。 「だから、ひとりのほうが楽だった?」 「楽なんじゃなくて、防げるだけ」 彼女はそう言って、ようやくスプーンを動かした。俺はその横顔を見ながら、胸の奥が少しだけ熱くなるのを感じた。拒絶じゃない。あれは壁じゃなくて、身を守るための殻だったのか。 「それなら、朝くらいは俺が減らす」 「減らすって、何を」 「俺の気配とか、余計な話とか」 「言い方が雑」 「でも、伝わったろ」 彼女は困ったように息を吐き、それから、ほんの少しだけ笑った。ほんの少しだけなのに、キッチンの空気が変わる。柔らかくなる、というより、張りつめた膜が一枚ほどける感じだった。 その瞬間、リンクの奥で、今まで気づかなかった感情が揺れた。怒りに見えたものは、守るために固めた反応だった。避けられるたびに冷たくなったのではなく、傷つかないように先に閉じていたのだ。 守りたい。そう思ったのは、たぶん初めてだった。 誰かに守られるのを待つんじゃない。彼女が余計な痛みにさらされないように、この空間くらいは整えたい。そう思う自分に、少しだけ驚く。 「……なに、その顔」 「別に」 「別にじゃない」 彼女は不満そうに眉を寄せたが、声はもう尖っていない。俺は苦笑して、椀を自分の前へ引き寄せた。 「お前、たぶん強いな」 「今さら?」 「違う。強がってるんじゃなくて、耐え方を覚えすぎてる」 彼女の指が止まる。けれど、逃げなかった。 「……変なこと、言うのね」 「悪かったな」 「悪いとは言ってない」 その返しを聞いて、俺はようやく気づいた。彼女は誰かを遠ざけてきたんじゃない。近づくほど壊れそうな世界から、自分を守ってきただけだ。 なら俺は、その殻を無理にこじ開ける役じゃない。 静かに、壊さないように、隣にいる役だ。 彼女がまたスプーンを口元へ運ぶ。今度は、ほんの少しだけ迷いが減っていた。俺は照明をもう少しだけ整えながら、その小さな変化を見守った。これくらいの朝なら、きっと続けられる。 そう思った次の瞬間、彼女がふと顔を上げる。 「ねえ」 「ん?」 「今日のあなた、少しだけ、危ない顔してる」 「は?」 「守るって決めた人の顔」 言い当てられて、俺は言葉を失った。彼女は何事もなかったみたいに視線を落とし、静かに食事を続ける。けれど耳までほんのり赤い。 俺はその横顔を見ながら、妙に落ち着かないまま、椀を持ち直した。
シンクロニシティ・オーバー
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