「ここで、止める」 俺は浴室の手前で足を止めたまま、低く言った。すぐ横の扉の向こうからは、排水管を流れる水の気配がかすかに伝わってくる。実験室を出てからずっと、彼女は何も言わない。けれど、リンクの奥では落ち着きのない波が細く揺れ続けていた。 「止めるって、何を」 「増幅だ。これ以上、俺が受けるだけじゃ限界が来る」 彼女は眉を寄せた。照明の落ちた廊下で、その横顔はいつもより尖って見える。それでも、声は震えていた。 「じゃあ、どうするの」 「一時的に、感覚の遮断をやめる」 「……は?」 俺は息を整えてから続けた。 「飾らない状態で向き合う。隠してる反応も、無理に抑える癖も外す。お前が拾いすぎるなら、俺のほうも見えないままじゃだめだ」 彼女の瞳がわずかに揺れた。 「それ、危なくない」 「危ない。でも、今のままじゃもっと危ない」 沈黙が落ちる。扉の向こうの水音だけが、やけに近い。彼女は腕を抱くようにして立ち尽くし、それから小さく唇を噛んだ。 「……そんなの、恥ずかしい」 「知ってる」 「知ってるって顔しないで」 「じゃあ、どういう顔をすればいい」 「黙ってて」 言いながらも、彼女は逃げなかった。むしろ一歩、ほんの一歩だけこちらへ寄る。そのたった一歩で、リンクの奥のざらつきが細くまとまるのがわかった。 俺は目を瞬かせる。 「今の、落ち着いた」 「……気のせいよ」 「気のせいじゃない。距離を詰めるほど、同期が安定してる」 彼女は悔しそうに眉を下げた。否定したいのに、事実が先に立ってしまう顔だ。 「私が近づくと、あなたの反応も静かになるの」 「ああ。さっきより、ずっと」 「なんで、そんなに平然としてるの」 「平然じゃない」 そう答えた途端、喉が少し詰まった。彼女が近い。逃げ場のない距離だ。けれど不思議と、胸の奥のざわめきは波のように引いていく。 「俺も、こんなふうになるとは思ってなかった」 彼女は黙ったまま、じっと俺を見上げる。怒っているようで、困っているようで、助けを求めるにはまだ強がりすぎている目だった。 「……ほんとに、飾らないの」 「飾ったら、たぶんお前は余計に拾う」 「そういうことじゃなくて」 言いかけて、彼女は視線を逸らした。耳の先までうっすら赤い。リンク越しに、その動揺がひどくはっきり伝わる。 俺は一度だけ深呼吸した。 「大丈夫だ。見ないふりはしないけど、無理に踏み込まない」 「それは、ズルい」 「何が」 「逃げる言い方じゃないのに、断れないところ」 その言葉に、今度は俺が黙る。彼女は少しだけ肩を落とし、浴室の扉へ視線を向けた。 「……本当に、少しだけだから」 「うん」 「変なこと、しないで」 「しない」 「約束」 「約束する」 ようやく彼女が手を伸ばす。扉の縁に触れたその瞬間、二人の間に張っていた見えない膜がほどけた気がした。彼女の呼吸が近くなる。俺のほうも、それに合わせるように静まっていく。 たったそれだけなのに、さっきまで不安定だった同期が嘘みたいに均されていくのがわかった。 彼女は驚いたように目を見開き、それから、困ったように笑いかける。 「……ほんとに、安定する」 「だろ」 「悔しいけど」 「認めろ」 「命令しないで」 口ではそう返しながら、彼女はもう一歩だけ近づいた。浴室の前という妙に中途半端な場所で、互いの気配だけが露わになる。隠していた呼吸、迷い、意地。飾らないほど、わかる。わかるほど、静まる。 俺はその事実に、まだ名前をつけられないまま立っていた。 「……このまま、続ける?」 彼女が小さく訊く。声は細いのに、もう逃げる響きではない。 俺は頷いた。 「続けよう。ここからなら、いける」
シンクロニシティ・オーバー
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