結衣奈は薬帳の留め紐をほどき、黄ばんだ頁をそっと開いた。紙は乾いているのに、そこだけ妙に温度を持っているように感じられる。怜也も椅子から身を乗り出し、息を殺した。 「ここ……」 結衣奈の指先が止まる。余白の隅に、祖母の筆跡で小さな印が描かれていた。見慣れた丸い癖字のはずなのに、その一角だけは妙に鋭い。店先に並ぶ薬草とは違う、何かを示すための合図だった。 「町外れの、水車小屋……?」 怜也が目を細める。 「地図か」 「たぶん、それに近いものです」 頁をめくると、短い走り書きが残っていた。焼き討ちの日、秘密は守られた。たったそれだけの文なのに、結衣奈の背筋に冷たいものが走る。 「守られた、って……」 「隠したんじゃない、守った……?」 怜也の声がかすれる。結衣奈はすぐには頷けなかった。祖母は何を知っていたのか。知っていて、なぜ自分に何も言わなかったのか。問いが胸の中で絡まり、ほどけない。 「これ、あなたが書いたんですか」 「違う」 怜也は首を振る。 「俺の字じゃない。だけど、この印は……誰かに見覚えがある」 「誰です」 「思い出せない。くそ……あと少しで触れそうなのに」 結衣奈は薬帳を閉じかけて、そこで手を止めた。祖母が長年、何も知らなかった顔で店に立っていたとは思えない。いや、むしろ知っていたからこそ、沈黙していたのかもしれない。 「怜也さん」 「なんだ」 「まだ、あなたを信じ切れません」 言葉は鋭かったが、怜也は逃げなかった。 「知ってる」 「でも、これが本当なら、あなた一人の話じゃない。祖母も、町も……全部つながってる」 結衣奈は薬帳の余白を指でなぞる。そこに残された印は、ただの記号ではない。行く先を示す矢印であり、同時に、戻れない道の入口にも見えた。 怜也が低く息を吐く。 「行くのか」 結衣奈は一拍だけ迷ってから、頷いた。 「確かめるしかありません。私一人では無理でも、二人なら」 その瞬間、店の外で夜風が戸を鳴らした。小さな音だったのに、妙に近く感じられる。結衣奈は薬帳を胸に抱え、怜也へ視線を向けた。 「準備しましょう。古い水車小屋まで、案内できますか」 怜也は少しだけ目を見開き、それから静かにうなずいた。 「……たぶん、覚えてる」
記憶を返す薬屋
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