エラベノベル堂

記憶を返す薬屋

全年齢

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5章 / 全10

怜也が椅子から立ち上がった、その拍子に店の奥の灯りが揺れた。結衣奈は薬帳を胸に抱えたまま、ふっと顔を上げる。外はすでに深い夜で、戸の隙間から忍び込む風が、草の匂いをかすかに運んでいた。 「行くなら、今ですか」 怜也の声は低かった。さっきまでの迷いは薄れている。だが、その代わりに別の影が濃くなっていた。 「ええ。でも、その前に」 結衣奈は一歩だけ近づき、まっすぐ彼を見た。 「記憶を消して逃げる、なんて言わないでください。祖母の遺した真意を知るまでは、私はあなたを手放せない」 怜也は目を伏せた。責められると思ったのか、肩がわずかに強張る。 「……危険だ。俺がいるせいで、お前まで巻き込まれる」 「もう巻き込まれてます。今さら格好つけないで」 言い返しながらも、結衣奈の声は震えていた。怖くないはずがない。けれど、逃げれば祖母の沈黙も、怜也の罪も、すべて霧の向こうへ消えてしまう。 怜也は苦く笑った。 「相変わらず、ずいぶん物好きだな」 「商売ですから。最後まで面倒を見るのが、薬屋でしょう」 「薬屋、ね」 彼は短く息を吐き、それから視線を上げた。 「じゃあ、提案がある」 結衣奈が首を傾げる。 「俺も逃げない。代わりに、お前も一人で抱え込むな。見たいものがあるなら、一緒に見る」 その言葉は、予想よりずっとまっすぐ胸に落ちた。結衣奈は薬帳の表紙を指でなぞる。祖母の沈黙の重みも、今なら少しだけ分かる気がした。真実は、誰か一人で抱えるには重すぎる。 「……分かりました」 結衣奈は小さくうなずく。 「互いの過去を見届ける。それが条件です」 怜也はゆっくりと頷き返した。 「約束する」 その返事が終わるより早く、店の裏手で、乾いた石を踏むような音がした。二人とも息を止める。 「今の……」 「追手かもしれません」 結衣奈はすぐに薬帳を包み直し、怜也へ目配せした。恐怖はある。だが、今はそれに構けている場合ではない。 「裏口から出ます。静かに」 怜也は頷き、戸の向こうへ耳を澄ませた。音はまだ遠い。だが、確実に近づいている。 結衣奈は灯りを最小まで落とし、店の裏へと足を向けた。怜也がそのすぐ後ろに続く。二人の間には、さっきまでなかった妙な静けさがあった。 それは恐れを共有した者だけが持つ、細い絆のようでもあった。 「結衣奈」 「なんです」 「……ありがとな」 短い言葉だった。結衣奈は振り返らずに答える。 「まだ早いです。助けるのは、これからですから」 裏口の板戸に手をかけた瞬間、外の闇が、ひどく近く感じられた。

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