エラベノベル堂

記憶を返す薬屋

全年齢

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6章 / 全10

裏口を抜けた瞬間、夜の冷えが肌を刺した。結衣奈は薬帳を布で包み直し、胸元にきつく抱える。怜也はその横で、耳を澄ませたまま一歩も乱さなかった。 「……来る」 「分かってます」 結衣奈は低く返し、町外れへ続く細い道を選んだ。足元の草は露を吸って重い。遠くで犬が一声吠え、それきり黙る。今はもう、店の灯りに縋ることもできない。 古井戸の影が見えたとき、結衣奈は胸の奥の緊張をさらに強めた。そこは昼間でも冷たく、今はなおさら闇が溜まっている。怜也が先に立ち、縁に手をかける。 「ここで、やるのか」 「ええ。今の私にできるのは、記憶の輪郭を辿ることだけです」 結衣奈は懐から小瓶を取り出した。調合の残りに、井戸水を一滴落とす。澄んだ液面が揺れ、鈍い光を返した。 「危険なら途中で止めます。無理に覗かせるためじゃない、傷つけないための手順です」 怜也は短く頷いた。 「頼む」 結衣奈は目を閉じ、祖母の教えを思い返しながら薬を指先に移した。輪郭だけをなぞるように、怜也の手首へ触れる。すると、夜の底から、冷えた空気とは違う寒気が立ち上った。 「……っ」 怜也の肩が震える。結衣奈の脳裏にも、同じ温度が流れ込んでくる。焦げた木の匂い。濡れた石壁。煙にまじる、紙が焼ける前のざらついた気配。 「これは……」 「見えます。焼き討ちの前だ」 怜也の声が、遠い記憶に引きずられたみたいに掠れた。 「密書は、罪を隠すためじゃない。町の見張りが動く前に、知らせるためだった……燃やされるはずだったのは、町じゃない。合図の方だ」 結衣奈は息を呑んだ。単なる盗みではなかった。誰かが町を救う手を、泥の中から拾い上げたのだ。 「じゃあ、あなたは」 「俺は、奪ったんじゃない。渡す場所を変えた……そう、覚えてる」 その瞬間、井戸の向こうで石を擦る音がした。結衣奈の背筋が凍る。 「怜也さん、背後」 怜也が振り向くより早く、闇の中にいくつもの気配が滲んだ。息を殺した人間の重さが、すぐそこまで来ている。 「追手だ」 結衣奈は薬瓶を握りしめたまま、唇を噛む。儀式はまだ終わっていない。けれど止めれば、今見えかけた真実も逃げてしまう。 古井戸の縁に、冷たい夜風が這い上がった。

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