「……来る、じゃないですね」 結衣奈は息を殺しながら、闇の向こうを見据えた。古井戸の縁に身を寄せたままでは、逃げ場などない。それでも怜也は、揺れる肩を無理に押さえつけるように立っていた。 「追手の気配、確かにある。けど、それだけじゃない」 「何か見えたのか」 怜也の問いに、結衣奈は薬で湿った指先を握り込む。 「断片です。祖母の筆跡にあった印と、今の感覚が……つながってる。あの印、ただの道案内じゃない。隠し場所を知っていた人間の印です」 「知っていた人間?」 怜也は眉をひそめた。結衣奈は頷く。 「祖母は、密書の在りかを最初から知っていた。でも隠したんじゃない。見つかる順番を選んでいたんだと思います」 「順番?」 「ええ。誰が来るか、誰が何を背負っているかまで」 夜風が古い石の隙間を抜け、ひゅうと鳴った。結衣奈はその音に耳を澄ませながら、ふいに胸の奥が締めつけられるのを感じる。薬売りとしては、ただの情報の整理で済ませたかった。だが、祖母がこの夜まで黙っていたと思うと、どうしても割り切れない。 「怜也さん」 「なんだ」 「あなたは、本当に盗み手だったんですか」 怜也は一瞬だけ目を閉じた。 「そうだ。いや、そうだった、という方が近い」 「その言い方、ずるいです」 「ずるいのは自覚してる」 苦い笑みが漏れる。だがすぐに、彼の表情は真剣に戻った。 「俺は密書を奪う側にいた。けど、あの時は……町が燃えるのを止める一手にもなっていた。今なら、そう言える」 結衣奈は唇を噛む。町を守った、という言葉は軽くない。けれど、それが誰かの罪を薄めるわけでもなかった。 「だったら、祖母はその全部を知って、黙っていたんですか」 「たぶん、そうだ」 怜也の声は低かった。 「知っていたからこそ、薬帳に残した。お前が読める形にして」 その一言で、結衣奈の胸に小さな痛みが走る。祖母は、店の奥にいる娘ではなく、いつか真実に触れるひとりの人間として、自分を見ていたのだろうか。 「私、ずっと薬屋としてしか見られてないと思ってました」 言ってから、結衣奈はしまったと思った。けれど怜也は責めなかった。 「違うのか」 「違う、というより……怖いんです。真実を扱うのは、薬よりずっと重いから」 そう口にした途端、喉の奥が熱くなる。娘として祖母の沈黙を受け止めるのは、客を相手にするよりずっと痛い。結衣奈は目を伏せ、それでも逃げなかった。 「でも、知らないままでもいられない」 怜也が静かに頷く。 「なら、一緒に確かめるしかない」 その時、井戸の向こうで石が一つ、乾いた音を立てた。二人の間に張りつめた空気が走る。 「……近い」 結衣奈は薬瓶を握り直した。怜也はその横で、誰よりも静かに身を低くする。 見えた断片は、まだ結論には届かない。だが、祖母が密書の隠し場所を知っていた理由だけは、もう逃げないところまで来ていた。
記憶を返す薬屋
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