エラベノベル堂

記憶を返す薬屋

全年齢

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8章 / 全10

森へ入った途端、夜の湿った匂いが肺の奥に刺さった。結衣奈は木々の影を縫う細道を走る。胸には、何かを固く抱えていた。割れば終わる。そんな焦りが足音を速める。 「結衣奈、左だ」 怜也の声が飛ぶ。次の瞬間、足元の落ち葉が不自然に沈んだ。 「っ……罠!」 結衣奈が跳ぶより早く、怜也が脇の根を蹴って進路を変える。細い縄が空を切り、後ろで短く弾けた。見えない手が木々を握りしめるような音だった。 「ありがとう!」 「礼はあとだ。まだ来る」 怜也は息を乱さず、枝の揺れ方を見ている。結衣奈にはただの闇にしか見えない場所を、彼は迷いなく避けた。 「どうして分かるの?」 「覚えてる、って言いたいが……身体が先に知ってる」 その答えに、結衣奈は唇を噛んだ。頼れるのに、完全には信じ切れない。そんな危うさまで含めて、今は隣にある。 背後で、複数の足音が近づく。追手の気配は、木々の間を抜ける冷気みたいに逃げ場を失わせた。 「止まるな」 怜也が低く言う。 「でも、水車小屋はまだ遠い」 「遠くても行くしかない。立ち止まったら、そこで終わる」 結衣奈は息を整えた。怖かった。喉の奥がきゅっと縮む。それでも、ひとりで走っているわけじゃないと分かるだけで、脚は折れなかった。 「怜也さん」 「なんだ」 「置いていかないで」 彼は一瞬だけ振り返り、暗闇の中で目を細めた。 「それはこっちの言いたいことだ」 短い返事に、なぜか胸が熱くなる。結衣奈は小さく息を吸い、もう一度前を向いた。 「じゃあ、約束」 「何のだ」 「互いを置いていかない。どんなに怖くても」 怜也は答えず、ただ片手を差し出した。結衣奈は走ったまま、その手を掴む。指先が触れた瞬間、二人の間にあった躊躇いが少しだけ消えた。 罠がまた一つ、闇の奥で鳴る。けれど怜也は立ち止まらず、結衣奈も守ったままついていく。 密書の在処はまだ分からない。それでも、恐怖を分け合った足だけが、真っ直ぐ森の深みへ向かっていた。

8章 / 全10

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