山道の入口に着いたとき、僕はすでに半歩先を取っているつもりだった。道は一本、しかも午後の日差しで影の輪郭がくっきりしている。地図と現地の地形を見比べれば、少なくともこちらが先行できるはずだった。 「先生、そんなに眉を寄せていると、紙が泣きますよ」 背後から聞こえた声に、僕は振り返らずに答える。 「君こそ、口を動かす前に足を動かしたらどうだ」 「もう動かしています」 その返事の直後、彼女は入口脇の立て札へすっと寄った。何をするつもりかと思えば、標識の裏を指先でなぞり、古い傷のような細い筋を見つけたのだ。 「……獣道だ」 僕が近づくより早く、彼女は勝ち誇った顔で振り向く。 「正規の道だけを追うのは、先生の得意技じゃないと思っていました」 「勝手に決めつけるな。だが、よく見つけた」 悔しいが、見事だった。標識の陰に隠れた踏み跡は、雨で消えかけているのに、まだ山の息を残している。地図にはない。いや、古い地図なら載っていたのかもしれない。 「先回りしようとしたのに、逆に先を取られた気分だ」 「そういうときは、素直に認めるものです」 「君にだけは言われたくない」 僕たちはほとんど同時に道を外れ、細い獣道へ踏み込んだ。木々の葉が肩をかすめ、湿った土の匂いが濃くなる。狭い斜面を抜けると、谷へ落ちる風が低く鳴った。 「こっちのほうが早い。けれど、無茶をすれば滑る」 「先生、今さら慎重ぶるんですか」 「慎重だからこそ、無茶を無茶で終わらせない」 彼女が小さく笑う。 「言い訳だけは一人前ですね」 「君もな」 そんなふうに言い合いながらも、僕らの足は同じ谷へ向かっていた。互いに行き先を読み、少しでも前へ出ようとし、それでも完全には離れられない。 分かってきたのは、相手がただの張り合い好きではないということだ。足取りは軽いのに、踏み外しがない。目線は鋭いのに、地形を見る癖がある。 「……君、山を読むのが上手いな」 「先生ほどじゃありません。でも、無駄に歩数を増やすのは嫌いです」 「それは同感だ」 言葉にすると妙に悔しい。だが、認めざるを得ない。彼女は僕の数手先を見ている。こちらもまた、同じくらい本気で彼女を見ている。 谷の風が強まる。僕は地図を折り直し、彼女は標識の向こうへ視線を流した。 「この先、道は広がるか」 「ええ。でも油断すると、別の誘導に引っかかります」 「誘導?」 「ええ。山は、急いだ者を試すので」 僕は短く息を吐いた。 「なら、試されてやるさ」 「その意気です、先生」 彼女の横顔を見ながら、僕は口元をわずかに緩めた。厄介な相手だ。だが、実力がある。しかも、こちらと同じくらい、この謎に惹かれている。 争っているのに、歩幅だけは合っていく。そんな奇妙な感覚を抱えたまま、僕らは谷へ続く斜面を下り始めた。
源流をめぐる競争
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