夜の仮設宿は、板壁の隙間から谷風が忍び込んでいた。蝋燭の火が揺れるたび、鞄の影が床に長く伸びる。僕は明日の出発に備え、羅針盤、測量糸、保存食、予備の水袋を順に並べ直した。ここまではいつもの確認だ。だが、最後に留め具へ指をかけた瞬間、妙な違和感が走った。 「……ん?」 手首ほどの革紐が、やけに硬い。触れた先に、ほんのわずかな切れ目があった。見た目は整っているのに、芯だけを細く削られている。山で使えば、いざというときに嫌な音を立てて切れそうだった。 「細工、か」 僕は舌打ちを飲み込み、他の道具も調べた。すると、留め金のひとつがわずかに曲げられ、糸巻きの端にも指先でいじった跡がある。派手ではない。だが、狙いは明らかだった。出発を遅らせるか、山中で不意を突くか。 扉の向こうを見た。隣室の気配がある。あの女学生も、同じ宿にいるはずだ。 「まさか……」 そのとき、廊下の向こうで短い足音が止まった。次いで、控えめだが苛立ちを含んだ声がする。 「先生、いますか」 彼女だった。 「入れ」 戸が開く。彼女は腕を組んだまま、むっとした顔で立っていた。だが、肩に掛けた鞄を下ろした瞬間、僕は彼女の表情が怒りだけではないと悟った。鞄の留め紐が、僕のものと同じように不自然に細っている。 「やられましたね」 「君もか」 「ええ。結び目をほどいたら、妙に手触りが軽かったので。……確認したら、見事に仕事されてました」 彼女は唇を噛み、悔しそうに言った。 「私の道具まで先に触るなんて、趣味が悪い」 「同感だ。僕のも、山で外れれば笑えない」 二人して装備を見比べる。狙いが同じなら、偶然ではない。村での聞き込みを見られていたのか、それとも宿に入る前から誰かが見張っていたのか。 「第三者、ですね」 彼女が低く言った。 「私たちが競っているのを、面白がってる」 「あるいは、競争そのものを利用している」 「どちらでも最悪です」 彼女は細工された革紐を指でつまみ、目を細めた。 「先生、こんな手口、心当たりあります?」 「ない。だが、村の人間がここまで露骨にやるとも思えない」 「ということは、外から来た誰か」 「少なくとも、僕らより先に洞窟の話へ辿り着いている」 彼女の瞳が鋭くなる。 「じゃあ、先回りされているのは私たちのほうですね」 「その言い方は癪だが、否定できない」 僕は細工の跡を蝋燭の光にかざした。切れ目は浅い。完全に壊すつもりではない。明日までに気づくかどうかを試すような、いやらしい精度だった。 「準備を整え直すしかない」 「ええ。でも、その前に一つだけ」 彼女は僕の鞄を見て、次に自分の鞄を見ると、小さく息を吐いた。 「向こうは、私たちが別々に動くと思ってるかもしれません」 「それは、ちょっと違うな」 「え?」 僕は装備をひとまとめにし、留め具を締め直した。 「僕らは別々に競っている。だが、同じ罠にかけられたなら、少なくとも相手の出方くらいは読める」 彼女は一瞬だけ目を見開き、それから不本意そうに笑った。 「先生、そういうところだけ妙に頼りになるんですね」 「褒め言葉として受け取っておく」 「ええ。今は、それで十分です」 蝋燭が一度、細く鳴るように揺れた。僕らは黙って装備を整え直す。明日は洞窟へ向かう。だが、その前に、こちらを出し抜こうとする誰かの影が、すでに山のどこかで笑っている気がした。
源流をめぐる競争
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