「……それで、この泉はね」 背後で、ようやくガイドの声が聞こえた。遅い。あまりに遅い。だが、不思議と不快ではない。喉の渇きが、耳の奥まで乾かしていたのだろう。 僕は岩の縁に膝をつき、泉へ手を伸ばした。冷たい。指先が触れた瞬間、底のほうから細かな光が返ってくる気がした。 「先生、待ってください。説明を聞いてから……」 彼女の言葉も、半ば掠れている。だが、次の瞬間には、僕と同じように水面へ顔を近づけていた。 一口でいい。そう思っただけだった。 喉を通った水は、山の冷気より澄んでいて、胸の奥に落ちた途端、妙に甘い熱へ変わる。息が、ほんの少しだけ軽くなる。視界が開ける。けれど、それは理性の輪郭まで薄くする種類の軽さだった。 「……っ」 彼女が小さく息を呑む。僕も同じだ。泉の水に、あり得ないほど心をほどく力がある。 「先生、今の、少し変です」 「同感だ……いや、かなり変だ」 言いながら彼女を見ると、頬がわずかに赤い。汗ではない。照れでもない。もっと厄介な熱だ。 「何を、そんなに見てるんです」 「君こそ、僕を見ている」 「それは、あなたが先に見たからです」 「理屈になっていない」 「先生のほうが、もっとなっていません」 言い合っているのに、声が妙に柔らかい。さっきまでの鋭さは残っている。残っているのに、刃先だけが熱を帯びて、勝負の意味が別の方向へずれていく。 彼女は自分の唇に指を当て、はっとしたように目を伏せた。 「……この水、考えが散ります」 「散るな。僕も困る」 「困っている顔、初めてかもしれません」 「君だって同じだ」 そう返しただけで、胸のどこかが勝手に跳ねた。こんなに近くにいる必要はないのに、足が半歩だけ動いてしまう。彼女も同じだった。気づけば、互いに一歩ずつ詰め寄っている。 「先生」 「何だ」 「……勝負、まだ終わっていませんよね」 「終わっていない」 「なら、私が先です」 その言葉が、なぜかさっきよりずっと熱く聞こえた。僕は笑うべきなのに、笑えない。代わりに、ひどく真面目な声が出る。 「なら、負けない」 彼女は目を見開き、それから、困ったように眉を寄せたまま、ほんの少しだけ口元を緩めた。泉の水面が揺れ、二人の影を重ねる。僕は初めて、相手に勝つという感情が、単なる出し抜きでは済まない気配を知った。
源流をめぐる競争
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